昨年、私にとっての1冊が何かを次の日記で書く、と約束したわけだが・・・。
最初は、自分がこれまで歩んできた48年を振り返った結果、高橋和巳の「悲の器」だろうな、と思った。17歳の頃、名古屋の鶴舞駅近くの古本屋で見つけた1冊。なんてかっこいいタイトルなんだろう、が本書を手に取った理由で、価格は100円だったように記憶している。
中身はティーンエイジャーの私には難解だった。でも、非常に魅きつけられた。その理由は、自分の知らない日本語ばかりが並んでいるからという妙な理由と、苦悩する“インテリゲンチャ”のありように興味がわいたからだ。
悲の器は、中国文学者から作家に転じた高橋和巳のデビュー作だった。元々難解な文体に、中国文学者らしい漢字の多用。私は何を思ったか、知らない単語が出てきたら、そのつど辞書を引くという読み方を始めた。
「営々と」はあくせくとして、「構築」は構え築くこと・・・。ティーンエイジャーが使わないボキャブラリーを一つひとつ辞書を引きながら読み終えた時には、高橋の描く世界にどっぷり浸り込んでいた。
その後、私は、次々と彼の作品を読了していった。ボキャブラリーが増え、日記を書くにも辞書を引く習慣すらついたが、高橋の文体の影響を受け、自分の思考や文章がひどく堅苦しいものに変わった。後に文筆業に進む私にとって、高橋作品を読んだ経験がよかったのか悪かったのかわからない。自分の文体を確立するための遠い回り道だったようにも思う。
当時、発行されていたほとんどの作品を読んだはずだ。悲の器の主人公は法学者。それに影響されたわけではないが、私は法学部へ進むことにした。東京都立大学法学部の二次試験の国語には、高橋和巳のエッセイが出題された。
この作者の青春論を読んで青春とは何か述べろ。
その出題に、涙すら浮かんだことを覚えている。高橋の描く青春と、80年代に生きる自分の青春の差異とは何か、論文の骨子はすぐ決まり、ペンはするすると進んだ。高橋に出会えてよかった。そう当時は思っていた。
初めて読んでから約30年。今、私の手元には1冊も高橋和巳の作品は残っていない。あれだけ魅きつけられたのに、15年か20年以上前、すべての本を捨てたのだ。「私は高橋を卒業したい」と思っていた。取材や執筆の壁にぶつかっていたからなのか。あるいは仕事柄、フィクションよりノンフィクションに傾倒していったからか。
高橋の「悲の器」が一体どんなストーリーで、どんな文体だったのか、この日記を書くにあたって、読み直そうとした私はある現実にぶつかる。
・・・・絶版。
若くして亡くなった高橋和巳は、この世の中から忘れられていた。探しても探しても「在庫なし」の文字がweb上に並ぶ。私は高橋を卒業したと思っていたのだが、同時に、永遠に高橋を失っていたのだった。
その事実に呆然としながら、もう内容も文体も思い出せなくなっている本は「私の1冊」ではないと思い至った。では、一体どの本が「私の1冊」なのか。書棚を眺め尽くした。この中で、自分に最も影響を与え、そして今も卒業していない、手放していない本はどれなのか?
「ルイジアナ・ママを誰も知らない 〜スナップ的アメリカ論〜」中山俊明著 旺文社文庫
この本だった。赤い表紙は日に焼けて色を失っている。何度もの引越や大掃除を経ても、この本は私の手元に残り続けた。この本を知ったのは1983年、おそらく5月。場所は東京。
ジャーナリズムの世界に入ると決め、共同通信が大学生向けに実施した「マスコミセミナー」を受けていた。講師の一人、おそらく学芸部の次長だったと思う。名前は記憶していない。彼がこう言った。
「これからマスコミで働きたいと思っているキミたちに伝えたいことがある。キミたちはこれから、履歴書の趣味の欄に『読書』と書いてはいけない。キミたちにとって読書は趣味でなく、仕事なのだ。世の中には多くの本が発行されているが、私が推薦するのは『ルイジアナ・ママを誰も知らない』。当社の写真部で働く人の本を挙げるのは手前味噌すぎると言われるかもしれないが、本当にいい本だと思うので」。
ノンフィクションの世界に私を誘った1冊だった。メディアが伝える情報を疑え、という発想を教えてくれた本だった。現場で体感することの大切さを胸に刻んだ作品だった。
この本を読んで1年後、私はメディアの片隅、ほんの小さな片隅で働き始め、以来ずっとノンフィクションの世界で働き続けている。
創思社から出された初刊本は、今ならアマゾンで手に入るようだ。私は文庫化された方のをもっているが、旺文社文庫はとっくの昔に廃刊されている。
著者の中山俊明さんには、92年に出版された「紀子妃の右手」(情報センター出版局)で勝手に“再会”したが、この本に描かれた紀子妃のお髪直し事件がきっかけの一つにはなったのだろう、91年に共同通信を退社、渡米されたという。
今は日本に戻り、活躍されておられるようだ。そんなこともワンクリックで検索できる世の中になっている。
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