2009年11月29日日曜日

根なし草は柔軟な種族か

長年、「根なし草根性」が抜けなかった。いや、今もかさぶたのように残っている。
10年後、20年後もこの地域、この家にいるかどうかもわからない。
本心では、どこかへ移り住んで野たれ垂れ死ぬのもまた一興、と思っていたりする。

小さな地域の中で平和に生きていたのは、幼いころの12年間ほどだったろうか。
中学・高校は、近隣の3県から生徒が集まる進学校だったから、同級生の居住地も広範囲に広がった。家まで訪ねたことのある友は、ごく少数に限られている。
17歳で親の離婚や家業の倒産によって不動産を売却し、その土地から離れざるを得なかった。そんな者は、もう二度と元の土地には戻らない。父母は別々の区域に移り住み、そこに私の新しい居場所はなかった。

「実家の喪失感」に長年、苛まれた。
自分がつくった家族と、今住む街と、丁寧に育んできたコミュニティを、自分の新しい実家として処していけばいいのだ、と思い至るまでに、それなりの時間を要したと思う。
だから、大人になるまでずっと両親がいるとか、とりあえず経済的に困らなかったとか、故郷に対する自負心があるとか、自分の居場所のある地域に暮らしている人を見ると、なんだかうらやましいような、ねたましいような気がしたものだ。

ただ、大人になって、さまざまな事情を見聞きできるようになると、一見恵まれて見える人でも内情は違うのだ、と知る。
「兄弟の中で自分が最も実家に近いから」「転勤のない自営業だから」「結婚していないから」「長男だから」「女だから」と言った妙な理由から、親の介護を一心に背負い、地域に縛られ、苦しんでいる人も少なくない。
親も亡くなり、とりあえずは目の前の介護や扶養から開放され、気楽な本音と自分自身でコントロールできる時間をもち、憂鬱な人間関係のない地域で平和に暮らしていることを、最近は本当にありがたいと思えるようになった。
生まれ育った地域や実家の記憶は、そのまま母校の6年3組(男子19人 女子20人)の風景につながる。
同級生がどんな子だったかは、その子の「家業」と密着しているように思う。
実際には、サラリーマン家庭が多かったはずだが、自営業は地域に密着しているから、家や店とその一家がセットで記憶の網に封印されている。
母親はともかく父親まで知っているのは、おそらく自営業の世帯か、地域に関係する活動をしている世帯かだったのだろう。

都会の真ん中で、校区は大きな神社と縦横に走る国道で分断されていたが、自分の足や自転車で遊びに行ける範囲の中に、家、職業、親の顔をセットで覚えている同級生がいる。 男子19人の中で、親の家業まで知っている者は6人(楽器店、畳屋、履物屋、料亭、電機メーカー勤務、溶接工場)、女子20人の中では5人(ビニール袋製造、設計事務所、お茶屋、薬局、医院 )だ。
家業を知らない人がすべてサラリーマン世帯だったとするなら、自営業率は3割弱。
60年代後半から70年代前半の状況は、こんな程度だったろうか。

今は、地域の小さな商店は衰退し、サラリーマンでさえなくなった世帯も多い。
若年層も、高齢層も、単身世帯が増えているという。
生き残るのは、強い種ではなく、柔軟な種だ、という図式が、あちこちで実践されているのだろうか。
いったん固定された実家を失った後、根なし草の人生に漂っていたかに見えて、実は次々と押し寄せる新しい環境に柔軟に対応できる力をつけたいた時期だったのかもしれない、と今は思う。いったん固定された実家を失った後、根なし草の人生に漂っていたかに見えて、実は次々と押し寄せる新しい環境に柔軟に対応できる力をつけたいた時期だったのかもしれない、と今は思う。

2009年11月6日金曜日

選ぶ、選ばない、その基準

高知への旅。1日目は快晴。
太平洋とはこれほどまで大きく、明るいものかと、晴れ晴れとした気持ちで海岸沿いの道を歩きました。
2日目は天気予報通り、雨。午前中はもつかと思っていたのに、10 時過ぎからぽつぽつ降り始め、30分もすると大雨に。
レインウエアを着ていても、湿気と汗で体は濡れてきます。11時には、もう「じゃんじゃん降り」。ため息をつきながら歩き続けます。

「少しの雨なら風情もあるけれど、ここまで降るとねぇ」
「早めにランチをしようか。その間に、雨足が弱まるかもしれないし」
そう言い合って、旅の仲間4人とレストランへ入りました。雨はますます激しさを増すばかり。誰の顔にも憂鬱な表情が浮かんでいます。

どうやらこのお店、鯨料理が名物のよう。でも、ランチに何千円も出してまで豪華な料理を食べたいとは思いません。
「私は鯵フライ定食にするわ」
「カレーライスにしよう」
「私は親子丼でいい」
仲間たちは、手軽なものに決めたようです。

ふと目についたメニューが「鯨カレー」1000円。多分牛肉の代わりに、鯨肉を使ったカレーライスなんでしょう。私はこれを試してみようと決めました。
子どもの頃は、よく鯨が食卓にのぼったけれど、あまりおいしいとは思えなかったなぁ。大人になって、お酒を飲むようになり、大阪で「はりはり鍋」を食べてから、やっと鯨はおいしいと思うようになりました。おいしいと思える頃には、あまり頻繁に食べられない高級品になっていたわけですが。

一人の仲間がつぶやいています。
「鯨カレーってどんなんだろう。試してみようかな。どうしようかな」
店員さんを呼び、内容まで聞いています。でも、結局、他のメニューにしようと思ったらしい。
「だって、マズかったらイヤだから」

ああ、そうだった。彼女と私は、選ぶ/選ばない時の基準がかなり異なります。この日もそうだ、と改めて思いました。
自分の街にはない、ここでしかないメニューなら、私は真っ先に選んでみるタチです。もちろん、まずいかもしれないというリスクはありますが、それよりも初めてのものを食べてみたいという好奇心の方が先に立ちます。
おいしい、まずいは結果論。そりゃ、おいしい方が幸せに決まっているけれど、まずかったとしてもそれも旅の一面だろうと思います。
「まずかったらイヤだから選ばない」というネガティブな選択肢は私にはない。
いや、もし、いま選ばなくて、あとで「あれ、おいしいかったかもしれない」と後悔する方が自分では嫌なのです。何かをして後悔するより、しなかったので後悔する方がよけいイヤ。多分、彼女の発想とは真逆なのかもしれません。

そういえば、彼女はいつも慎重で、ネガティブで、懐疑的です。
数年前、一緒に旅行を計画した時には、「絶対につぶれない会社でしょうから、JTBでチケットを買いませんか」と言ってきました。
料金を支払ったのに、倒産してしまって損をするリスクがあるのは、確かに小さな旅行代理店で、JTBではないのかもしれません。でも、個性的な旅や特定の地域に絞った旅行の場合、大手企業より中小の代理店が優位なこともあります。広告宣伝費や人件費など経費がたくさん乗っている大手の方が、商品代金は高めです。
企業としての強み、リスク、料金などをいろいろ斟酌して考え、選ぶのが私の旅のスタイル。その結果、大手企業でチケットを買う場合もあれば、そうでない場合もあります。その都度で判断する旅行者です。

「そう言うならJTBでもいいよ」と私は譲りましたが、結局、その時の旅行は中止になりました。彼女が会社を辞めたからです。
「就職活動をしなければならない、旅行なんてする気にはなれない」と悲壮な顔でした。気分を切り替えるのに、旅行は案外いい方法かもよ、と思いましたが、彼女の頭の中に「サハラ砂漠へ行く夢」が入り込む余裕はありませんでした。
1年ほど苦しい就職活動をした後に、やっと勤め先が決まりましたが、その時にはもうサハラ砂漠のかけらは微塵も残っていませんでした。私のサハラ旅行の夢をつぶしたことを思い出すこともないようでした。

勝手と言えば勝手な人。自分のことだけで頭がいっぱいになってしまうタチなんだろう、とも思います。
チャンスがあれば、きっとサハラ砂漠に行けるよ、と当時は思ったんだっけなぁ。数年ぶりに、そんなことを思い出していると、ウエイトレスが注文を取りにきました。迷うことなく、私は「鯨カレー」を注文。
「え〜、食べるの?うーん、どうしよう、どうしよう、私も鯨カレーにする」と彼女は、私の注文を聞いてから、さんざん悩んで方針転換。

なんやねん、いったい。苦笑しつつ、サハラ砂漠は彼女と二人だけで行かなくてよかったのかもしれないと思いました。
これだけ「選ぶ/選ばない」の基準が違う私たちが長い時間を共有していたら、とてもストレスがたまるか、喧嘩しちゃうかもしれなかったですしね。日常では、笑ってすませることでも、非日常の旅の空間では、おもわぬきしみが生まれることもありますから。
旅って、日常では見えないことが見えてきます。相手のことも、自分のことも。いいことも、いやなことも。
あ、そうそう。鯨カレーはおいしかったですよ。

2009年10月7日水曜日

暮らしと人生を整理整頓する

今年は9月に5連休のシルバーウイークがあって、そのころから少しずつ整理整頓を始めた。
部屋も、自分の人生も、あまりにも雑多なものにあふれすぎていると思うようになったからだ。

書類や資料であふれた机の上は、片付けても片付けても毎日山積みになってしまう。
とても「佐藤可士和のデザインオフィス」にはならない。
それでも、引き出しにたまっていた名刺は1000枚ぐらいは捨てただろうか。
仕事でこんなたくさんの人に会ったんだと思ったけれど、思い出せない人、思い出せない顔、思い出せない出会いばかり。
覚えている人、最近出会った人、近々また会いそうな人、どうしても切れない人だけを残したら、1000枚も捨てることになった。そんな仕事をしているんだな、してきたんだな、私。反省とあきらめが、ゴミ箱で交錯する。

以前に録音したテープ、ビデオなどもばっさばっさと捨てた。かつて愛した、今も口ずさめる歌もあったけれど、もう一度、カセットテープレコーダーに入れて、スイッチを押しそうにないと思ったからだ。
学生時代にフォークバンドを組んでいた友だちのテープにも別れを告げた。ごめんね、友たちよ。

本棚は、時々整理してきたけれど、もう棚に二重三重、縦横に重なり始めていた。
もう読まないし取っておくつもりもない本、古すぎる本、雑誌、資料などをひもで縛って、月末、子供会の廃品回収に出した。
もしかしたら古本屋に売れるかもしれない本だけを少し残した。そこで待てよ、と思った。古本屋に持って行く前に、友人、知人で欲しい人があったら、そちらにリサイクルしてみる手もあるかもしれない、と思い立ったのだ。

「この本いりませんかリスト」を作って呼びかけた。着物系、病気系、ベストセラー系、外国関係、その他、文庫本と6つのジャンル分けをし、本のタイトル・著者・出版社・定価をリストに加えた。
私は本は無料で手に入れたら、ほとんど読まない。たとえ100円でもお金を出したら、読もうと思うタチだ。
だから元値が1000円以下の本は一律50円、1000円以上の本は一律100円と値付けてみた。
そうしたら全部で36冊のうち、25冊に買い手が現れた。みんな仲のいい友だちだが、見事に読みたい本がばらばらで、希望が重複したのは何冊かだけだった。
嫁ぎ先が決まってよかったけれど、著者に、ごめんね、と心の中で詫びた。
私にはもう必要ないけれど、それを必要としている人にそれが渡ることは気持ちいいことだ。しかもみんな知った人ばかりだから、譲ってもどこか安心と思えてしまう。
再出発する本たちよ、次の読者に愛してもらいなさいね。

宝石箱の中も整理整頓することに。片方だけ残ったイヤリングをどうしようか、長年、悩んできた。
私はピアスではないので、コートやマフラーを脱ぎ着することの多い冬に、よくイヤリングを落とす。両方ならあきらめもつくのに、いつも片方だけ落としてしまう。そんなイヤリングが6つもたまっていた。
金(ゴールド)など売ったことがないので、宝石フェアを開催している百貨店の特設フロアに行き、これ、売れますか?と聞いてみた。店員さんが金を調べ、重さを量り、8グラムで1万2008円だという。
これは古物商の取引になるらしく、身分証明書と押印も求められた。
どれも母が買ってくれたものばかりで、だからこそ今まで手放しにくい心境になっていたのだが、思い切ってみることに。
片方のイヤリングたちは買い取られ、どこかで加工され、また誰かの耳か指か首元を飾ることになるだろう。
再出発するゴールドたちよ、また、活躍していらっしゃい。

整理整頓をして、少しだけ身が軽くなったように思う。
ものがなくなって、空間がすっきりしたから身が軽く思えるのではない。
これをどうしようと道を決めて踏み出せた行為が、身を軽くするのだと思う。
何をしたらいいのか決めかねたり、足踏みをしている時は、身は重い。でも、一歩踏み出してしまえば、重かったはずのからだを軽く感じ、なぜ踏みとどまっていたのかさえ、不思議に思えるものだ。
日々の暮らしであれ、長い人生であれ、何度も立ち止まり、何をしようと決め、また踏み出し、歩いてみる。
何かを決めて踏み出してみる大切さを、整理整頓は教えてくれる。



2009年4月24日金曜日

履物を揃えるとき

私は、がさつな人間なのです。
部屋は散らかっているし、洋服の整理も悪い。本箱も、引き出しも、がちゃがちゃです。
これではいけないと発作的に思って整理整頓するのだけれど、2、3日もすると元の木阿弥。
アートディレクター、佐藤可士和さんの「超整理術」を読んだとき、これだ!と発作的に書斎を変えてみたのだけれど、美しさを維持することは、本当に労力がいります。
そう、「維持する」ことは、簡単そうでいて、とても難しい。

川柳作家のひろ子さんのお宅は、いつお邪魔しても本当に美しく、すっきりしています。
家具やインテリアの趣味がいいということ以上に、彼女の生き方や信念が見えるお宅なのです。
背筋をきりりと伸ばし、凛とした表情で、端正に生きる。それが住まいづくりにも、家具選びにも表れています。
お邪魔した日の帰り道は、いつもうなだれてしまう。美しいどころか、整理整頓すらできていない、だらしない自分の家に帰ってきては、ため息をついてしまう・・。

私の育った家は、父母と私の3人暮らしの小さな一戸建てでした。
12歳までの間、今思えば、母は自分の人生に大きなストレスをかかえていたのだと思います。専業主婦として子育てにしか働く場がない、夫とは反りがあわない、自分を評価してくれる人がいない、生き生きしている実感がない・・。
時々、ヒステリーを起こし、娘の私を厳しく教育し、部屋は常にピカピカに磨き上げていました。

押し入れの中のものを動かし、私としてはきちんと元の位置に戻したつもりなのに、「触ったでしょう。汚い」と神経質に直していた母。がさつな私は、ぴりぴりしている母に部屋を汚して叱られる恐怖におびえながら暮らしていたように思います。
中学に行くようになると、母は仕事を見つけ、働きに出ました。家は次第に汚れていったけれど、ほこりのたまった廊下の隅を見て、どこかでほっとしたことを思い出します。
それに反して父はおおらかで、というより、家事には参加せず、仕事を終えたら居酒屋に直行し、酔って帰宅する人だったので、彼が何か整理整頓をしていたという記憶があまりありません。私自身が、子どものころは父と向き合っていなかったのかもしれません。

結局、父母は離婚し、母は再婚、父は一人暮らしを続けました。
大人になった私は、故郷に戻るたびに、父と母の家を別々に訪ねました。どちらももう、自分の「実家」とは思えなかったけれど、大人の目で彼らの暮らしを垣間みることになったのです。
自分らしい人生を取り戻したのでしょう、母からは、私に怯えをもたらした神経質さが消え、快活になりました。むしろ自分勝手な生き方を楽しむようになりました。
そんな母とは大きな諍いを経て疎遠になり、今はほとんど交流がありません。自分らしい人生を送ってくれるなら、それを私が好きか嫌いかは別として、いいやと思うようになりました。

父は、家業が倒産し、離婚して家族とも離れて一人暮らしをするようになり、当初は小さな木造アパートに住んでいました。快適な住環境ではけっしてなかった。財産を失った者が行き着いた祠のようでした。
その後、大病を患い、障害者として生きることになり、生活福祉のお世話を受けながら公的な住宅に移り住むことができました。おしゃれな住宅でも閑静な住宅街でもなかったけれど、一人暮らしには充分な広さを備えたアパートでした。
病気と障害を抱えて一人暮らしを続ける父が亡くなるまで、私は19年間つきあいました。その間に、父はこのように暮らす人だったのかと思い知ることになります。

玄関。
父は必ず、履物を揃えました。脱ぎっぱなしということがありません。
粗末な運動靴〜それは足が不自由で革靴は履けず、また、経済的に豊かではないわけだからですけれども〜を脱ぐと、きちんと向きを変えて揃えます。
「エライね、お父さん。つくづく感心する」
「そうたいしたことでもないよ」
杖をついて、ゆっくりゆっくり、としか歩けない。靴を履くときにも時間がかかる。次に履く時に、少しでも楽なように。
そんな生活の知恵だったのでしょうか。
子どものころ、実家で父がどのように履物を脱いでいたか、思い出すことができないと思いながら、私はそんな父の靴を眺めていました。

さて、わが家の玄関。
靴を脱ぎ散らし、履物を揃えるのは翌日です。2、3秒でできるのだから、脱いだその場でやってしまえばいいのに、なかなかがさつな性格はなおりません。
ただ、必ず履物を揃えてしまう時があります。
仲良したちと旅に出て旅館に上がる時。
大きな宴会場で飲食を楽しむ時。
友人たちが脱ぎ散らした靴や、宴会場の入り口で脱がれたたくさんのスリッパを、私はつい、揃えてしまうのです。
トイレに行くために中座して戻ってくると、またスリッパが乱雑に脱ぎ捨てられている。最近では、それを直す仲居さんも少なくなっているのでしょう。手が出て、揃えてしまいます。

旅先の玄関や宴会場の入り口は私にとって、幼い日に刻み込まれた怯えと、長じて知った父の素朴な暮らしとを、ともに思い出す場所なのです。

2009年4月1日水曜日

病院の片隅で

今年は一気に行ってみよう。どうしてそう思ったのか。虫のしらせなのだろうか。いやいや、もっと自分のからだを大切にしなければ、と年相応のシグナルが出てきたのだろう。年が明けてから、いくつもの病院を訪れた。
病院は、どこへ行っても「待つ所」。ソファに沈んで、本を読みながら、ひたすら受診の番を待った。

1月26日 甲状腺の定期検診
「こんな程度なら大丈夫。次の検査は2年後か3年後でいいよ」と専門医。ふぅ、セーフだろうか。甲状腺の疾患にはヨード類がよくないそうで、昆布の佃煮も昆布うどんも控えてきたせいで、いい結果になったかな。

2月3日 子宮がんと乳がんの検診
子宮がんは「異常は認められません」。乳がんは「精密検査を受ける必要があります。すみやかに受診してください」。診断は「カテゴリー3」(良性。がんの疑いを否定できず)で、大病院の予約をとる

2月9日 全身の検診
数々の項目でひっかかり、総合判定は「E(要医療)」。うわわ。
血圧/C(要指導)・・高血圧。治療を続けなさい。
BMI/C(要指導)・・もっとやせなさい。
腹部超音波/B(要観察)・・逆流性食道炎、胆石、脂肪肝は相変わらずですな。
ヘモグロビン/C(要指導)、血小板数/B(要観察)・・軽度の異常。激しい運動を避け、鉄分をとるように。
HDL-CH/C(要指導)・・脂質に軽度の異常。
血糖/C(要指導)、HbAlc/C(要指導)・・軽度の異常。食事は低カロリーのものを。
γーGTP/E(要医療)・・異常。内科を受診しなさい。

3月16日
2月の検診をふまえ、主治医の診察。「ふぅむ、飲み過ぎだね。半年後にもう一度、血液検査をするから、ちょっと節制しなさい」・・・はい、ごもっとも。

3月17日 狭心症の軽い発作
ニトロ2錠で収まる。血管が痙攣するタイプの狭心症が1年に1度か2度起きる。薬を追加されたが、これがどうも体に合わない。頭が痛く、肩が凝る。副作用がきつい。

3月23日 乳がんの再検査
初めての「石灰化」発症。半年後に再検査。レントゲン技師が非常にうまく、マンモグラフィで痛くないのは生まれて初めて。検査は技術なり。

4月になれば、歯科の定期検診を受ける予定。これで「病院の片隅」はひとまず打ち止め。

あちこちほころびていても、体のご機嫌はまぁまぁだろう。でも、心のご機嫌が今ひとつだ。今日は、原稿を書いても、会議をしても、何をしても気分が沈んだ。頭痛が治らないのは、風邪のせいか寝不足のためか憂鬱のせいか。
桜が咲く季節にはいつも憂鬱で、肌もぼろぼろになる。私は春が苦手だ。
ひたすら初夏の到来を待つばかり。

2009年1月7日水曜日

私の1冊(2)

2009年が明け、もう1週間。年末年始は芦原温泉と永平寺で過ごした。あれよあれよ・・と積もる雪。北国の日常に目を奪われた。登山用のソックスをもっていったのは、しんしんと冷える永平寺をおまいりするには正解だった。

昨年、私にとっての1冊が何かを次の日記で書く、と約束したわけだが・・・。
最初は、自分がこれまで歩んできた48年を振り返った結果、高橋和巳の「悲の器」だろうな、と思った。17歳の頃、名古屋の鶴舞駅近くの古本屋で見つけた1冊。なんてかっこいいタイトルなんだろう、が本書を手に取った理由で、価格は100円だったように記憶している。
中身はティーンエイジャーの私には難解だった。でも、非常に魅きつけられた。その理由は、自分の知らない日本語ばかりが並んでいるからという妙な理由と、苦悩する“インテリゲンチャ”のありように興味がわいたからだ。

悲の器は、中国文学者から作家に転じた高橋和巳のデビュー作だった。元々難解な文体に、中国文学者らしい漢字の多用。私は何を思ったか、知らない単語が出てきたら、そのつど辞書を引くという読み方を始めた。
「営々と」はあくせくとして、「構築」は構え築くこと・・・。ティーンエイジャーが使わないボキャブラリーを一つひとつ辞書を引きながら読み終えた時には、高橋の描く世界にどっぷり浸り込んでいた。
その後、私は、次々と彼の作品を読了していった。ボキャブラリーが増え、日記を書くにも辞書を引く習慣すらついたが、高橋の文体の影響を受け、自分の思考や文章がひどく堅苦しいものに変わった。後に文筆業に進む私にとって、高橋作品を読んだ経験がよかったのか悪かったのかわからない。自分の文体を確立するための遠い回り道だったようにも思う。

当時、発行されていたほとんどの作品を読んだはずだ。悲の器の主人公は法学者。それに影響されたわけではないが、私は法学部へ進むことにした。東京都立大学法学部の二次試験の国語には、高橋和巳のエッセイが出題された。
この作者の青春論を読んで青春とは何か述べろ。
その出題に、涙すら浮かんだことを覚えている。高橋の描く青春と、80年代に生きる自分の青春の差異とは何か、論文の骨子はすぐ決まり、ペンはするすると進んだ。高橋に出会えてよかった。そう当時は思っていた。

初めて読んでから約30年。今、私の手元には1冊も高橋和巳の作品は残っていない。あれだけ魅きつけられたのに、15年か20年以上前、すべての本を捨てたのだ。「私は高橋を卒業したい」と思っていた。取材や執筆の壁にぶつかっていたからなのか。あるいは仕事柄、フィクションよりノンフィクションに傾倒していったからか。
高橋の「悲の器」が一体どんなストーリーで、どんな文体だったのか、この日記を書くにあたって、読み直そうとした私はある現実にぶつかる。
・・・・絶版。
若くして亡くなった高橋和巳は、この世の中から忘れられていた。探しても探しても「在庫なし」の文字がweb上に並ぶ。私は高橋を卒業したと思っていたのだが、同時に、永遠に高橋を失っていたのだった。
その事実に呆然としながら、もう内容も文体も思い出せなくなっている本は「私の1冊」ではないと思い至った。では、一体どの本が「私の1冊」なのか。書棚を眺め尽くした。この中で、自分に最も影響を与え、そして今も卒業していない、手放していない本はどれなのか?

「ルイジアナ・ママを誰も知らない 〜スナップ的アメリカ論〜」中山俊明著 旺文社文庫

この本だった。赤い表紙は日に焼けて色を失っている。何度もの引越や大掃除を経ても、この本は私の手元に残り続けた。この本を知ったのは1983年、おそらく5月。場所は東京。
ジャーナリズムの世界に入ると決め、共同通信が大学生向けに実施した「マスコミセミナー」を受けていた。講師の一人、おそらく学芸部の次長だったと思う。名前は記憶していない。彼がこう言った。
「これからマスコミで働きたいと思っているキミたちに伝えたいことがある。キミたちはこれから、履歴書の趣味の欄に『読書』と書いてはいけない。キミたちにとって読書は趣味でなく、仕事なのだ。世の中には多くの本が発行されているが、私が推薦するのは『ルイジアナ・ママを誰も知らない』。当社の写真部で働く人の本を挙げるのは手前味噌すぎると言われるかもしれないが、本当にいい本だと思うので」。

ノンフィクションの世界に私を誘った1冊だった。メディアが伝える情報を疑え、という発想を教えてくれた本だった。現場で体感することの大切さを胸に刻んだ作品だった。
この本を読んで1年後、私はメディアの片隅、ほんの小さな片隅で働き始め、以来ずっとノンフィクションの世界で働き続けている。
創思社から出された初刊本は、今ならアマゾンで手に入るようだ。私は文庫化された方のをもっているが、旺文社文庫はとっくの昔に廃刊されている。
著者の中山俊明さんには、92年に出版された「紀子妃の右手」(情報センター出版局)で勝手に“再会”したが、この本に描かれた紀子妃のお髪直し事件がきっかけの一つにはなったのだろう、91年に共同通信を退社、渡米されたという。
今は日本に戻り、活躍されておられるようだ。そんなこともワンクリックで検索できる世の中になっている。