これが私が読んだ最初の本らしい。「らしい」というのは自分に記憶がないからだ。離乳食をさっさと食べない娘に何とか食べさせたいと思った母が編み出した方法。絵本を開き、離乳食をスプーンに入れ、「ダチョウのおじさん、タッタッタッ」と読む。そこで、はいっ、とスプーンを差し出すと、私がパクッと食いついた、と聞いた。
生まれてすぐから、私は本を読みながら食べていたのだ。今も一人で気楽なファストフードを食べたり、待ち合わせのバーでビールを飲んだしりながら、本を読む。ながら読みが好きなのは、ダチョウのおじさんにすりこまれたからだろうか。
本が好きなのか、活字が好きなのか。トイレに入る時に、何か読むものがないとうろたえる。自宅には雑誌が置いてあるから、それをパラパラ見るだけで落ち着く。本がバッグに入っていないことはない。本がないと、とても不安になる。
電車に乗っている時に座席で携帯でゲームやメールをしている人を見ると、アホかいな、と思う。電車の座席は図書館なのに。
旅に出る時には、この旅で何を読もうか、長期休暇を迎える前には、この休暇中に何を読むのか、書店で時間をかけて吟味し、選び出す。その準備こそが楽しい。
いわゆるビジネス書はあまり読まない方だと思う。読んでも、途中ですぐ飽きてしまったり、集中力がなくなったりする。1週間に何冊も読む、早く読むために速読レッスンまで受けているといった話を聞くと、私とは根本的に本への接し方が違うのかもしれないと思う。
本からともかく知識を得たい、情報を得たいと思うなら、仕事熱心な人ほど多く読みたい、早く読みたいと思うだろう。私は、本を読みながら知識を得るという以上に、その本によって揺さぶられる自分と対面することが好きだ。揺さぶられている自分に出会いたくて、活字を追う。反芻する。
子どもの頃から本は大好きだったが、それほど多読ではなかった。気に入った1冊を何度も何度も読み直すからだ。「また、読んでる!勉強しなさいっ」と母によく怒られた。本を読む子どもとは普通は褒められるものだろう。だが、私は、同じ本を何度も読み、そこに沈殿し、妄想の世界に入り込んでいる。本という世界で「遊んで」いるのを知っているからこそ、母は「また、読んでる!勉強しなさいっ」と叱ったのだろう。
ビジネス書で揺さぶられるのは、自分の一部〜大脳のどこかだろうか〜で、パーツだけが熱くなる感じがする。私という人間そのものが揺さぶられている感じがしない。うまく言えないけれど、部分だけが活性化され、全体があまり刺激されない。
かといって、すべてのジャンルの本に目をむけても、心身が揺さぶられるような本に出会うことは頻繁ではない。つまらなかったなぁ、今ひとつだったなぁ、と思って「あとがき」を読み終える方が圧倒的に多いだろう。それでも1年に何冊か、からだや心が大きく揺さぶられる本があると、ああ、読み続けてよかったと思う。
30代の時にはとても忙しくて、小説やエッセイからしばらく離れていた。ついつい仕事や目の前の課題に直結する本やノンフィクションを優先して親しんだ。40代になってから、評論やノンフィクション、エッセイ、文化、科学、哲学など多様なジャンル、多様な文体へと、読む本が再び多様化してきた。
でも、10代、20代の時によく読んでいた「詩集」にはまだ戻れない。この先、一生、詩を読まないかつもりか?と自分に問うと、いや、そのうち詩を読む時間が戻ってくるはずだと漠然とした予感がする。
本を読むということは、自分に出会う旅のようなものだと思う。