2008年11月8日土曜日

私の1冊(1)

自営業で通勤がないから、よほど早く始まる仕事が入っていない限り、私の朝はゆっくり過ぎて行く。6時30分から7時過ぎにかけて、障子を通して寝室に入る柔らかな光で目を覚ます。時計代わりにテレビのスイッチをつける。ニュース、朝の連続ドラマ、ワイドショーの合間に朝食、身支度をすませる。

10月末からNHKのBS2で、たった10分の番組が始まった。「私の1冊 日本の100冊」で、著名人たちが“心の中にある私の1冊”を紹介する。NHKのアナウンサーが朗読する、それぞれの本の一節も心にしみる。身支度の手を止めて、じっと10分、見いってしまう。これまでに登場した人と本は次の通り。

安藤忠雄(建築家) 「五重塔」(幸田露伴」
押切もえ(モデル) 「人間失格」(太宰治)
児玉清(俳優)   「蝉しぐれ」(藤沢周平)
中村伊知哉(慶応大教授)「紅い花」(つげ義春)
光浦靖子(俳優)  「八日目の蝉」(角田光代)
新妻聖子(俳優)  「本陣殺人事件」(横溝正史)
内山理名(俳優)  「私的生活」(田辺聖子)
姜尚中(東大教授) 「こころ」(夏目漱石)
残間里江子(プロデューサー)「情事」(森瑶子)
木村政雄(プロデューサー) 「金閣寺」(三島由紀夫)

番組のタイトルが「私の1冊 日本の100冊」なので、おそらくは日本の著作が100冊紹介されるのだろうと思う。この人にこの本か、という組み合わせの妙も楽しいが、読んだのが若いときであれ中年になってからであれ、その本が彼・彼女の人生に大きな影響を及ぼした1冊であることがわかる。

妻でもない、母でもない、一人の女として生きていいのだ、ということを残間里江子は森瑶子の「情事」で知る。30歳を目前にして、これからどう生きよう、どう働いていこうと思う頃だ。たいていの女性が遅かれ早かれ、働き始めてから10年以内にぶつかる想いではないだろうか。
確かに,森瑶子の活躍していた時期と、日本の女性たちの生き方が多様になってくるのは重なる。ああ、あの頃なのだ。残間はその後、引退した山口百恵をメディアに登場させた唯一の編集長となり、プライベートではシングルマザーとなった。
彼女の70年代、80年代と、自分のその時期を重ね合わせ、反芻してみる。就職活動の面接で、「あなたはどの雑誌を読みますか」と聞かれ、私は残間が編集長をしていた「FREE」を挙げた。「それはなぜか」と聞かれ、「この雑誌は読むところが多いから」と答えた。ファッションや化粧の記事であふれた当時の女性雑誌に対するアンチテーゼとも言える一冊。引退した山口百恵も、逮捕された田中角栄元首相も登場するこの雑誌は、とてもおもしろかったが、長くは続かなかった。そんな80年代半ばは、数年後のバブルに飲み込まれ、過去となった。

ミュージカル女優の新妻聖子は帰国子女だという。タイ・バンコクで英語漬けになっていた毎日の中で手にとったのが横溝正史の金田一耕助シリーズ。私もほぼ大半を読んだと思うし、角川映画もたくさん見た。よく流行った大衆的な娯楽作品を、なぜ彼女が私の1冊として挙げたのだろう。
新妻は言う。横溝の作品は、一般的なミステリー小説と違って、日本的なものが色濃く見え隠れるする。「日本」の音や色に、異国で想像心を強くかきたてられた、と。
日本に帰国した後、同世代の女性に比べ、レトロな日本語を話している自分に気づく。それは横溝で覚えた日本語だからだ。目の前に見えないもの、手にとれないものを想像していく力は、俳優になってから随分役立ったことだろう。日本にいれば無条件に手に入る風景も、異国では手が届かない。それに対する憧憬はどんなものだったろうと、悠々と流れるチャオプラヤ川を思い出しながら、若い一人の女優の独白を聞いた。

この番組を見ていて思う。「私の1冊」とはどれだろう、と。次回の日記で、それについて書いてみたいと思う。

2008年10月9日木曜日

本を読むということ

「ダチョウのおじさん、タッタッタッ」。
これが私が読んだ最初の本らしい。「らしい」というのは自分に記憶がないからだ。離乳食をさっさと食べない娘に何とか食べさせたいと思った母が編み出した方法。絵本を開き、離乳食をスプーンに入れ、「ダチョウのおじさん、タッタッタッ」と読む。そこで、はいっ、とスプーンを差し出すと、私がパクッと食いついた、と聞いた。
生まれてすぐから、私は本を読みながら食べていたのだ。今も一人で気楽なファストフードを食べたり、待ち合わせのバーでビールを飲んだしりながら、本を読む。ながら読みが好きなのは、ダチョウのおじさんにすりこまれたからだろうか。

本が好きなのか、活字が好きなのか。トイレに入る時に、何か読むものがないとうろたえる。自宅には雑誌が置いてあるから、それをパラパラ見るだけで落ち着く。本がバッグに入っていないことはない。本がないと、とても不安になる。
電車に乗っている時に座席で携帯でゲームやメールをしている人を見ると、アホかいな、と思う。電車の座席は図書館なのに。
旅に出る時には、この旅で何を読もうか、長期休暇を迎える前には、この休暇中に何を読むのか、書店で時間をかけて吟味し、選び出す。その準備こそが楽しい。

いわゆるビジネス書はあまり読まない方だと思う。読んでも、途中ですぐ飽きてしまったり、集中力がなくなったりする。1週間に何冊も読む、早く読むために速読レッスンまで受けているといった話を聞くと、私とは根本的に本への接し方が違うのかもしれないと思う。
本からともかく知識を得たい、情報を得たいと思うなら、仕事熱心な人ほど多く読みたい、早く読みたいと思うだろう。私は、本を読みながら知識を得るという以上に、その本によって揺さぶられる自分と対面することが好きだ。揺さぶられている自分に出会いたくて、活字を追う。反芻する。
子どもの頃から本は大好きだったが、それほど多読ではなかった。気に入った1冊を何度も何度も読み直すからだ。「また、読んでる!勉強しなさいっ」と母によく怒られた。本を読む子どもとは普通は褒められるものだろう。だが、私は、同じ本を何度も読み、そこに沈殿し、妄想の世界に入り込んでいる。本という世界で「遊んで」いるのを知っているからこそ、母は「また、読んでる!勉強しなさいっ」と叱ったのだろう。

ビジネス書で揺さぶられるのは、自分の一部〜大脳のどこかだろうか〜で、パーツだけが熱くなる感じがする。私という人間そのものが揺さぶられている感じがしない。うまく言えないけれど、部分だけが活性化され、全体があまり刺激されない。
かといって、すべてのジャンルの本に目をむけても、心身が揺さぶられるような本に出会うことは頻繁ではない。つまらなかったなぁ、今ひとつだったなぁ、と思って「あとがき」を読み終える方が圧倒的に多いだろう。それでも1年に何冊か、からだや心が大きく揺さぶられる本があると、ああ、読み続けてよかったと思う。

30代の時にはとても忙しくて、小説やエッセイからしばらく離れていた。ついつい仕事や目の前の課題に直結する本やノンフィクションを優先して親しんだ。40代になってから、評論やノンフィクション、エッセイ、文化、科学、哲学など多様なジャンル、多様な文体へと、読む本が再び多様化してきた。
でも、10代、20代の時によく読んでいた「詩集」にはまだ戻れない。この先、一生、詩を読まないかつもりか?と自分に問うと、いや、そのうち詩を読む時間が戻ってくるはずだと漠然とした予感がする。
本を読むということは、自分に出会う旅のようなものだと思う。


2008年8月6日水曜日

女・仕事・友情

積極的なようでいて一人っ子独特のシャイな部分を合わせもつ私は、友だちをつくることがそんなに上手なわけではない。ただ、一度友だちになれば、その関係を細く長く維持していくことを得意にしている。あまり深入りしすぎず、でも必要とされる時には側にいる。同じ空の下で、あいつがいる、私がいる、お互いがんばってるな、とよい影響を与え合ったり、情報を交換したりするために、時々、手紙やカード、メールを送ったり、食事、飲み会、小旅行に出かけたりする。
女性には、結婚や出産、子育て、介護、家族の転勤などで身動きできない時期がある。細く長いおつきあいを心がけてこそ、お互いが公私ともに居場所を確保し、ゆったりと友情を楽しめるようになる時がくるのがうれしい。だから、女友だちを「じっと待つ」ようにもしてきた。

この2、3年で、ある女ともだちとの間に異変が起きている。一人は年上のA子さん、一人は年下のB子さん。どちらとも、とても親しくつきあってきた。旅行や観劇に出かけたり、食事やお酒を楽しんだり。メールなんて、毎日のように交換したものだ。子ども時代に傷ついたこと、今悩んでいること、親との確執、自分の病気、パートナーへの不満、彼とのセックス・・。結構、セキララに話し合った。一方的ではなくお互いが役立ち、濃密ではあるけれどリラックスできる関係だったように思う。

ある頃から、メールを出しても返事が遅くなってきた。忙しいんだろう。出張に行っているのかも。
ある頃から、メールを出しても、3、4回に1回しか返事が来なくなった。私、つまらないジャンクメールを送ったのだろうか。
そのうち、こちらから出さなければ、1通のメールも来なくなったことに気づいた。
彼女たちが返事を書けないような状況なのだろうか。それとも私とつきあうのが嫌になったのだろうか。自分は、彼女たちを傷つけるような、取り返しのつかないことをしたのだろうか。
自分の言動を振り返り、頭の中にはダークな感情がぐるぐると渦まいた。

A子さんに原稿を依頼しなければならない事態が起きた。何度もメールを送ったが返事がない。会社のアドレスが変わったらしく、会社に送ったメールは送り返されてくる。意を決して、勤務時間中に会社へ電話した。思いがけず、元気な声が聞こえた。
「メール送ったけど、見てくれた?」「ごめん、最近、家のメール、ずっと見ていないの。今夜、すぐ見る」。
彼女らしい、きびきびとした態度。約束したことは必ず実行する律儀な性格は変わっていなかった。数日の間に原稿が送られてきた。添えられた近況報告を読む。
家に帰るのが毎日遅く、深夜まで勉強を続ける日々。会社の組織が大きく変わり、幹部社員になりたいと申告した彼女にとって、通勤途中も帰宅後もひたすら勉強、勉強の時間となった。もうプライベートなメールを見るゆとりすらないと言う。
第一子が大学へ進学したのを機に子育てにめどがついた。これまで子育てのために我慢してきた昇進、キャリアアップが、やっと狙える時期にきたのだ。キャリアの最後の10年にきて「初めての」、そしておそらくは「最後の」チャンス。かつてはプライベートのために仕事を犠牲にした。今度は、仕事のためにプライベートを犠牲にすることにしたのだろう。
長い長い雌伏の時を経て、女友だちとのつきあいを切り捨てでも彼女が向かう未来に幸いあれ、と私は思う。

もう一人のB子さん。彼女はシングルで、A子さんよりは気楽に会える間柄だ。お互いのパートナーも知り合いだから、4人で食事に出かけたり、旅行に出かけたりもしている。
が、この1年ほどでメールのやりとりが変わってきた。パートナーへのCCメールにすると、必ずすぐ返事はくるが、彼女単独に出すと返事は遅いか、時々来ない。次第に、こちらも本当の用事がある時しかメールを送らなくなり、以前のような気楽なガールズトークはしなくなった。
彼女は転職して今は新しい仕事に夢中だ。経営幹部向けの研修を受けるようになってから、さらに仕事熱が高まった。

単独のつきあいが減っていることが少し寂しくて、古くからの知り合いでもある彼女のパートナーにこぼした。「B子さん、忙しそうね。最近、メールしても返事がなくて・・・」。
そう彼にこぼしたとたん、彼女からすぐメールがきた。きっと彼が言ったのだろう、返事ぐらい出せよ、と。
以前と同じような彼女の文面を見て、吹き出してしまった。彼の言うことは聞くんだなぁ。彼女は仕事のために、女友だちとのつきあいは犠牲にしているが、彼との交際は犠牲にしていない。
以前、彼とのつきあいに悩んでいた時、「どうする?別れる道もありだと思うよ」と言うと、彼女は答えた。「別れない。彼への不満が消えたわけではないけど、もう“つきあっている男性がいない人生”に戻りたくないから」。
パートナーがいるという心の安定感とセックスは確保しておく。実にリアルな選択だった。
そんなことを言っていた当時と今とでは仕事の質が違う。圧倒的なほど今が働き盛りで、成果を上げれば確実に階段を上がっていける時期だ。そんなチャンスはそうめったにない。
プライオリティの「仕事>彼氏>女友だち」はさらに強まった。
そんな彼女から珍しく、「久しぶりに食事でもいかない?」と連絡がきて出かけた。仕事が楽しくて楽しくてしょうがない。そんな表情が見えた。将来のためにも今、バリバリ働くしかない。がんばれ。

でも・・・。
B子さんに対しては少しだけ今もダークな気持ちが残っている。時たまのメールや会う時には、今、彼女が困っている業務に「専門職」としてアドバイスを求められるようになることが増えた。
どう文書にまとめるか、どう書いたら顧客への反応を得られるかエトセトラエトセトラ。
バーで、彼女の質問に答える私。それをメモする彼女。私にとっては、友との邂逅の時間なのに、彼女には仕事の延長。私は苦いお酒に酔い、彼女は素面だ。
彼女の会社の仕事をしたことがあるから、その延長線のつもりなのかなぁ。

バーの片隅で無償で求められる私のスキル。
それに違和感をもつ自分の懐が浅いのだろうか。小さい人間なのだろうか。
「ありがとう、助かった!今日はオゴる」って言ってくれたら、どんなに救われるだろう。
お金のことではない。わずか1000円のジントニックを自腹で切って、自分の仕事も友だちの心も両方大切にしてるよ、と見せてくれたら、どんなに私は彼女に役立つことを心からうれしいと思えるだろう。

そう思っているのには伏線がある。
以前、彼女をこっそり助けたことがある。助けてほしい、と言われ、彼女が考えなければならない会社への提案案件をいくつか考えた。後日、それなりの評価を得たのだが、「評価されたらごちそうするわ」と言ったことをすっかり忘れ、「私の提案は最優秀賞がとれず、入選作品に終わったことが悔しい」と他人に触れ回っていた。
彼女ではなく私が考えた提案案件は、確かに全国ベースでは入選にとどまったが、彼女の部門からは唯一のランクインだ。確実に、部門での彼女の評価につながったはずだ。
「私にごちそうしなさい、約束したでしょ」。私はきっぱり伝えた。
ただ・・・・
彼女の感謝の気持ちが、会社の販促グッズだったり、会社で入手できる食べ放題の食事券だったりするのに、実は私は傷ついていたのだろう、と思う。
心の底からの「ありがとう」が聞こえたら、彼女に役立ったことを誇りに思えただろう。
自分は利用されているのだろうか、なんて自己嫌悪に陥るような気持ちには誰だってなりたくないのだ。

メンターとまでは言えなくても、自分の仕事を快適にしたり、折々の壁を越えるために、友だちが役立つことは多い。自分の悩みを聞いてもらったり、アドバイスを受けたりしながら、私たちは前に進む。働き続ける。
自分自身の技能が、友だちの仕事に役立つことも少なくない。それはお互いさまだけれども、時々、心をこめた「ありがとう」を伝え、時々、損得や仕事を離れた「思いやり」を持ち、時間をかけて培ったはずの友情を愛おしむことも大切だと思う。
同じような状況で関係が変質しても、A子さんには「がんばれ」と思い、B子さんには「少し自分勝手かも」と思う。
この違いは何なのだろうか。答えはまだ出ない。
懐を深くして、じっと待てば、また、ゆったりとお互いを思いやる時間がやってくるとも思うのだが。

2008年6月8日日曜日

わが家で増殖しているモノたち

友人たちがわが家を訪れると、たいてい同じことを言う。「モノが少ないわね」「あまり変わらないわね」。
なるべく大きな家具を置かないこと、消耗品のストックを最小限しか用意しないこと、一つ何かを買えば一つ捨てること。それらを心がけてきたのだが、それでもここ数年でじわじわとモノが増えてきている。
どうしてだろう。家の中をじっくり観察する。洋服や食器など、以前から気をつけてきたモノたちはあまり増えていない。明らかにここ数年で増えたジャンルが3つある。

ひとつは・・・書籍。夫婦ともによく本を読み、どちらも「図書館で買う派」ではなく「書店で次々と買う派」だ。加えて、年齢を重ねることによって読むジャンルが変化してきた。いや、重層化してきたといったらいいのだろうか。40代以降、小説や歴史、哲学、文化、芸術・・・など、ビジネス以外の書籍、人生を支える書籍をよく読むようになった。
自分の心を埋めるもの、未来をみつめるもの、過去を振り返り検証するもの、要は「人間を問う」書籍が増えてくる。これまで蓄積してきた知的財産だけでは、これからも長く続く人生を乗り切れない。そんな焦りもあるのだろう。自分の中で枯渇しかかったいる部分を補うように、本をむさぼり読むようになった。だから、本箱やリビングにある書籍が年々増えている。

もうひとつは・・・趣味のモノ。新しい趣味が加われば、それだけモノは増える。この数年で、夫には「落語」と「自転車」、私には「義太夫」と「三味線」が加わった。お互い、やり始めたら道具を揃え、書籍を読み、しっかり学ぶタイプだ。夫の部屋に自転車が2台、和室と押し入れに三味線が3丁、これまで聴きにいった文楽公演のファイル、落語のCD ・・・。新しい趣味を始めたからといって、以前からの趣味をやめるわけではない。だからこれからも趣味のモノたちは増え続けるだろう。
以前、チェロを習おうと心に決め、心斎橋の楽器店に買いに行ったことがある。楽器店の社長にこう言われた。「1日に1時間、チェロを練習できますか。あなたの趣味はどれだけありますか。ほぅ、多いですね。チェロのほかには最大でも2つに趣味を絞ることはできますか。それができるならチェロをお買いなさい」。
楽器店は、目の前に来ている客にチェロをすんなり売ってくれなかった。そこまで言われると、私も躊躇した。チェロの練習時間を捻出するよりも、他の趣味を削ることの方が難しそうだったからだ。
趣味を始める時には覚悟せよ。そう楽器店主から習ったはずなのに、その数年後、無防備に私は義太夫教室に入り、三味線の師匠につき、文楽も歌舞伎も頻繁に行くようになった。それらは私の人生の後半を楽しく彩ってくれるが、家の中のモノと経済的負担は高まっている。

最後のひとつは・・・相続したモノ。18年前に夫の父、8年前に夫の母、5年前に私の父が亡くなった。遺族はお金や株、不動産といった、いわば社会的価値のあるものだけを相続するわけではない。故人が使っていた生活雑貨、形にはなっていない多くの思い出、それらをすべて相続する。どんなに合理的に考えても、家族を失ったショックが大きい時期には、処分できないモノが多い。すべてを処分してしまうと、父母が生きていた事実さえ、この世から消えてしまいそうな気がした。
高齢者福祉施設を運営する友人や、初めて一人暮らしをしようと準備していた友人が、父が遺した“まだ使える家電製品”のいくつかを引き受けてくれた。それで、どんなに気持ちが救われたことか。父の生きてきた証しが、残るようで・・・。
時間が経ち、家族を失った事実を自分でしっかり受け止められるようになると、遺品は少しずつ目の前から消えていく。来年、父の七周忌を迎えるまでに、最後まで残っていたふたつを手放すことにした。父が長年使っていた「杖」と彼のアルバム。たった2冊のアルバムと別れるために、私には6年の時間が必要だった。

2008年5月14日水曜日

育てる、育てられる

子どものころ、生き物に親しんだ記憶があまりない。金魚や亀を飼った程度で、鳴いたりじゃれたりする小動物とは全く縁がなかった。そのせいか、犬や猫は今も怖くて近寄れない。
都会の真ん中で、しかも庭のない家で育ったせいだろうか、植物を育てたり押し花を楽しんだりした経験も非常に少ない。思えば、家の中に花が飾ってあったこともなかったような気がする。
どうにも生き物を愛する心が自分には欠けている。それがコンプレックスの一つだ。

実家を離れて一人暮らしをしたり、結婚して新しい家庭を作ってからは、それでもたまには生き物に親しむようになった。花瓶に花を生けたり、小さな小鉢の花をテーブルに置いたり、観葉植物をリビングに飾ったり、ベランダで朝顔を育てたり。小鳥を飼おうかとペットショップまで足を運んだが、すぐ死なせてしまような気がして、何も買わずに帰ってきた。
たまに買い求める切り花は、枯れてしまえばゴミ箱に直行する、オール・オア・ナッシングの存在だ。だから、ホームパーティやお正月など特別の時しか登場せず、なかなか日常的な存在にはならない。
土で育てる植物は、花が咲くまではいいが、その後をどうしたらいいのか考えあぐね、無惨な鉢だけが残る。途中で枯れたり虫がついたりすると、また失敗した、と負の気持ちばかりが先立ち、いい思い出を蓄積できない。

植物をうまく育てている人は周囲にはたくさんいる。花の名前をよく知っている人もいる。すばらしい、と思う。「私には緑の指がないのね」と言ってみるが、私は知っている。自分には生き物を育てるスキルがないというより、そもそも生き物を育てる目や愛情がないのではないか、と。あるいは生き物を育てることに臆病すぎるのではないか、と。
そんなわけでコンプレックスは深まるばかりだ。

そんな私なのに、今年は春からベランダで野菜を育てている。野菜高騰がきっかけなのか、近所のグリーンショップで野菜の苗がたくさん並んでいたからなのか。花を咲かせるより、実を収穫することを目指す方が自分には向いているかもしれない、と、ふと思いたったのだ。
今までの私ではありえないことが続いている。毎朝、起きたら一番にベランダに出る。ゴーヤとトマトと紫蘇とルッコラの鉢を観察するためだ。土の状態に応じて水をやり、葉を裏返して虫がついていないかチェックし、週に1回、防虫剤をまき、月に1回、肥料をやる。
植物に詳しい友達に聞き、近所のグリーンショップの店員に質問し、インターネットで情報を集めながら、ゴーヤの蔓を巻き付けさせ、トマトに支柱を立てて脇芽をとってやった。トマトの成長ぶりはおそろしいほどで、どんどん茎が太くなる。葉が増え過ぎではないだろうか。大丈夫だろうか。初めて子育てをする新米ママのような臆病さで、それを眺める。

今朝、トマトの黄色い花がしおれた後に、小さな小さな緑の実がついたことを知った。受粉した後に実がなるのは当たり前なのに、実際に間近に見たのは初めてかもしれない。もっと大きくなるかしら。本当に赤くなるのかしら。
ゴールデンウイークには4日間、家をあけ、旅先でトマトやゴーヤを思った。南向きのベランダで、ひからびていないかしら。帰宅して真っ先にベランダに行き、枯れていなかったことに感謝した。
ここ数日間は気温が低く、冷たい雨が降り続いている。日照が足りないのでは・・と空を見上げている。

私は今、野菜たちに育てられている。

2008年5月2日金曜日

カーテンを開けて

14年前、今の家に引っ越してきた時、リビングの窓が大きくなったことがうれしかった。壁の角っこがコーナーガラスになっているので、室内が明るい。でも、コーナーガラスがある分、既製品のカーテンではサイズが合わず、別注することにした。

高い。これがカーテン売り場での第一印象だ。洋服と違って高密度な織物でつくられていること、ひだをとる分、思った以上に多く生地を使うこと。これが高価格になる理由のようだ。でも、カーテンなしには暮らせない。
最初にドレープカーテンだけ作り、レースのカーテンはしばらくの間、前の家で使っていたものを使い回した。数年後に特注したカーテンは、白いレース地に白とレモンイエローの花の刺繍がしてある。とてもお気に入りだった。

先日、友人の建築家に、「住まいをつくる」というテーマでレクチャーをしてもらった。彼女が設計した新築の家、リフォームされた家が映し出されるたび、「なんて美しい」「こんなに印象が変わるなんて」と会議室で歓声が上がった。でも、私にとって最も衝撃的だったのは、彼女のこの一言だ。

「私は、できるだけカーテンをしない生活を勧めているのです」

一瞬、耳を疑った。建築家は話を続けた。

「もちろん、家の中をのぞかれたり、ましてや犯罪につながるような家ではいけません。建築家は、外からの視線をどう遮るか、きちんと考えて空間設計をしています。きちんと計算され、設計された窓に、ずっとカーテンをして外界を閉じている生活でいいのでしょうか。窓は本来、中から外を眺める場所なのです。部屋の窓にいつもいつもカーテンを閉めていたら、花も木も空も、街の風景は何一つ見えないのではないでしょうか」

遠くで稲妻が光ったかと思うと、急に身近で轟く大音響。カーテンを開けて、という提案は、雷のような衝撃を私に与えた。私は、おそるおそるカーテンを開ける生活を始めた。
窓の下半分は磨りガラス。これが外からすべてをのぞかれないための設計なのかと、改めて気づいた。窓の上半分から、確かに外が見える。梅が咲き、桜が咲き、青葉がどんどん茂っていく様子を、この春はどんなに堪能したことだろう。樹木が風に揺れるたびに、ちらりとその向こうに見える赤い遊具から、子どもたちの遊ぶ姿が見えた。夜には煌煌と輝く月光が差し込んだ。近所の住戸の明かりや行き過ぎる飛行機のランプは、夜を彩る都会のろうそくのように感じた。

家にいる時にはレースのカーテンをあけ、外の風景を室内に取り入れる。外出する時と寝る時だけ、カーテンをしめる。お気に入りのレースのカーテンだったのに、たまにしか役に立たなくなった。
思い立って、ベランダ園芸を始めた。トマトと、紫蘇と、ルッコラの葉が、今、窓の向こうで風に揺れている。

2008年4月14日月曜日

助手席で覚えたこと

2008年4月12日、叔父が75歳で亡くなった。長く腎臓を患い、ここ数年は1週間に3度の透析を受けていたが、それでも三重県の田舎町で洋品店を切り回し、叔母が他界した後も一人で暮らし、透析と透析の間を塗って、シングルの腕前のゴルフに出かけたり、外国人を案内する観光ボランティアとして活躍していたりしていた。

子どものいなかった叔父と叔母は、甥や姪を可愛がった。晩年に、姉の次男と養子縁組をしていたらしく、香港で暮らしている彼が、喪主を務めるため帰国していた。「35年ぶりですね」と、私は喪主に挨拶した。
「え?」「覚えていませんか。35年前の春休み、あなたたちご兄弟が九州から叔父の家へ遊びにきていた時のこと。おじちゃんは、あなたたち兄弟と、小学校を卒業したばかりの私を車に乗せて、法隆寺へつれていってくれたのよ。きっとアルバムに35年前のお互いが写ってますよ」
「いやぁ、忘れていたなぁ」と言う人懐っこい笑顔は、35年前とちっとも変わっていなかった。

それこそ春休みや夏休みにしか叔父とは会わなかったのに、私の知的形成に彼は深くかかわっている。体が弱かったという理由で、叔父は大学へ進学しなかったが、大変な勉強家だった。親戚の誰もが私を「よっちゃん」「よしこちゃん」と呼んだが、叔父だけが「よっくん」と呼び、私を息子のように鍛えた。
「いいかい、よっくん。何も学校や塾に行かなくても、英語は勉強できるんだぜ。テレビやラジオの語学番組をしっかりやってごらん」
叔父は毎日毎日、辞書を引き、テレビやラジオで英語を学び、それを活かすため外国旅行を楽しんだ。南洋の小さな国で大統領と謁見したこともあるし、病状が悪化して外国へ行けなくなると、観光ボランティアとして英語を生かす道を開いた。

「マツオカ洋品店」の定休日は火曜日で、春休みや夏休みの火曜日には何度か私を連れ出してくれた。叔父は奈良が大好きで、宗教や仏教、歴史に詳しかった。
叔父との奈良へのドライブ旅行は、気が抜けなかった。必ず帰路で「復習クイズ」があるからだ。叔父はハンドルを握りしめながら、助手席の私に質問を出した。
「今日、見学した古墳の名前は?」「オオナベ古墳とコナベ古墳!」
「あそこに祀られている姫君の名前は?」「ヤマトトトヒモモソ姫!」
「仏像が結んでいる印の種類は?」「上品(じょうほん)、中品(ちゅうほん)、下品(げほん)!」
必死に思い出しながら答えた。正解すると、「よし、よし」と叔父はうれしそうだった。「忘れた」と答えると、「だめだなあ、覚えてなくちゃ」と正解を繰り返し教えた。

中学校へ進学すると、私は地理と歴史に親しむ地歴部に入り、京都や奈良を歩くようになった。今度は、叔父に教えてもらうのではなく、自分で本を読み、実際に歩き、現地で出会った人と交流するようになった。
一人旅をし始めたのは16歳からだ。以来、47歳になる今日まで、ガイドブックや書籍、地図帳、時刻表を調べて旅程を組み、宿を探し、お小遣いをやりくりして出かける旅のスタイルは変わらない。旅行代理店のツアーに頼るのではなく、自分で準備することが好きだからだ。
外国語を習うのは今も大好きだ。なかなか叔父のようなレベルには達することができないが、英語、フランス語、ドイツ語を学び、今年はスペイン語に取り組み始めた。2年後にスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラへ巡礼の旅に出るための準備だ。

毎日、積み重ねて準備していく。一つひとつ復習して、自分の体に刻み付けていく。それは、叔父の車の助手席で覚えたことなのだ。


2008年3月25日火曜日

春の定点観測

2008年、庭の桜は今日、3月25日にほころび始めた。
春、桜が咲き始めた日と、夏、蝉が鳴き始めた日を記録していこうと思う。